シングルメドレーを入れる意味
政府の規制緩和によって、スポーツ会場やコンサートでの客席の解放の波が、僕の職場にも、今週末からいよいよやってきた。僕が働いている会社も例外ではなく、客席を開放した上でのルール作りを短時間で作り、それを現場に降ろして、告知物や販促物も全部入れ替えなければいけなくなった。
おかげで昨日も僕は会社に泊まることになった。
僕は他の部署の責任者たちと一緒に、施設内のモニターに映る映像や告知物の最終確認、オペレーションに関することを短時間でチェックしていく必要があった。転職してすぐにある部署の責任者を任されたからだ。
既に食事も休憩をとらないまま8時間が過ぎようとしていた。もうすぐ、朝焼けが窓からみえるぐらいの時間になる。
おいおい、今日、僕の推しの五十嵐早香先生の誕生日なんですけど、てか、なんでこの人達休憩しないの?
僕が食事にしないか、少し休憩しないか、と提案すると、他部署のある女性責任者が「私だって食べてないんです、我慢してください」と言われた。
自分がしんどいからお前もしんどいのを我慢しろ、という思考の先には精神的な貧困しか待っていない。もうゴールが見えてきたから、そこまで時間をおし進める必要もない、と判断したから言ったのだが、ダメだった。
僕が言い返そうとすると、直属の上司が止めた。
そこから、現場が少し険悪な雰囲気になってしまった。
みんな疲れている。
僕の思考の9割も「ああ、こんなブラックカンパニー辞める、絶対、辞める。てか、他業種から転職してきたとはいえ、新卒の時より給料低いし」とネガティブなものに支配されていた。
その時、ふと僕の上司が作業用鞄から小さなスピーカーを出した。
ノートPCにそれを接続すると言った。
「君、確か、SKE48好きだよね。何かリクエストある?」
あまりにも急な質問で不意をつかれた。
「えっ、そんなそんな。大丈夫ですよ、こんな時に」
「いやいや、僕も眠いしさ。じゃあ、ランダムで」
彼はどうやら配信アプリを使っているようだった。
キラキラするようなイントロ音が聴こえてきた。
「パレオはエメラルド」だ。
SKE48が紅白に出場してインパクトを残した曲だが、残念ながら僕の職場では誰も知らない。
気まずい、もの凄く気まずい。
ピリピリしたムードに、あまりにも場違いなものが放り込まれた感じだ。
丁度、僕らが居たところがただっ広いロビーホールだったので、「パレオ」が反響して響いている。豪華だ。みんな、黙々と作業をしている。僕もだ。静かな深夜の職場に南国の海の世界が広がっていく。
次に「ごめんね、SUMMER」が流れた。
僕がコンサート会場に居たら、わーい、と喜ぶところだが、徹夜で完全に眼が死んでいる僕以外の人達には、どんな風に聴こえているか心配だった。まさか、自分が好きなものがこんな形で会社の人達に伝わるとは。
先ほど、僕に休憩するな、と言った人は明らかにイライラしている。
うーむ、流石に気まずいな。
次に「FRUSTRATION」が流れ始めた。
気まずい。
もう、超気まずい。
ただ、僕のやる気だけは上がっている。
次に「1、2、3、4、ヨロシク!」が流れ始めた。
おお、良いじゃないか。
個人的に大好きなシングル曲である。
ただ、今のズタボロの状態にこの曲はどれぐらい合うんだろうか。
さっき、僕に文句を言ってきた人が笑っていた。
「なんですか、この変な曲?」
それは馬鹿にするというよりは、力が抜けるといった笑いだった。
「解説してよ、得意でしょ?」
上司が言った。
そこから、作業は止まり、僕の「1、2、3、4、ヨロシク!」解説が始まった。歌詞の面から、メロディの面から、当時のSKE48と現在のSKE48についてなど。
「誰推しなんですか?」、「日向坂も好きじゃなかったですか?」、「松井玲奈って今も居るんですか?」他部署の社員の人がどんどん、作業を止めて質問してくる。
その時、なんとなく上司の意図が分かった。
僕が気づいた時には、最近入った若手社員の子が全員分の缶コーヒーを持ってきていた。
「明るい曲が多いですね」、ふふふ、「金の愛、銀の愛」を聞かせてあげたい。「10クローネとパン」の持つ世界観の素晴らしさも教えてあげたい。
結局、そこから休憩になって、みんなパンを買いに行ったり、カップ麺を食べたりした。SKE48の曲はそこからかけっぱなしになっていた。僕は、ふと「ラムネの飲み方」公演のシングルメドレーを思い出していた。メンバーたちは公演の最後に、もう残りの体力をふりしぼって踊る。今日のステージに後悔を残さないように。
この曲を最初は蛇足だと思っていた。
「ラムネの飲み方」の美しく優しい世界観に、なんで乱雑な公演という枠の外のものを投げ込むんだろうと。
少しだけ、その理由が分かった気がした。
全力でSKE48のシングル曲を踊ることで、最後の盛り上がりが来て、僕らは元気をもらっていたのかもしれない。
休憩して明るくなった職場には「無意識の色」が流れていた。
これは多分、「12周年記念公演」の方で聞けるんじゃないかと期待している。
なんとか、準備がすべて完了した。
僕は最上階にある休憩室に行って、アイスコーヒーを飲みながら朝焼けに照らされた街を見ていた。もうすぐ始発が動き出す。
眠い、眠すぎる。
本当は「テネット」の2回目を観に行こうと思ってたのに。
「あの、すいません」と声をかけられた。
僕に休むな、と言った女性社員の人だった。
「あっ、先ほどはどうも失礼しました」と謝ると、「こっちも気が立っていて、申し訳ありません」。この人がさっきみたいな思考になった背景には何があるんだろう、とふと考えた。休憩しないとか残業が美徳みたいなことを未だに言っている人達が彼女の上にいるんだろうか。
「説明上手いですよね? もし、良かったら、うちの広報サイトの方で文章とか書いてみませんか?会社のイベントのことじゃなくて、普段のことで…。こう、独自の見方が面白そうなので」
これ以上書いたら、死ぬ、とコーヒーを吹き出しそうになった。
「あの、考えさせてください。ただ、やるとしても絶対に休憩ありでお願いします」
壁と天井には不安なオレンジがぼんやりと浮かんでいた。