謎が深まる秋元文学の名作
皆さん、SKE48の曲や48・46グループの曲に文学性を感じる時はありますかね。文学性の定義は皆さんに任せますよ、話し出したら面倒なんで。
たとえば、ざっくりと「歌詞がで描いている世界が凄いなあ」とか「言葉が美しいなあ」で行きましょう。
最近、よく聴いているSTU48の「風を待つ」なんかは、メロディを含めて、その世界に居たいと思わせる名曲ですし、NMB48の「ドガとバレリーナ」は、秋元康が本気だしたんじゃない、という写実的な世界を描いています。
じゃあ、SKE48はという話になるんですが、僕はこの「石榴の実は憂鬱が何粒詰まっている?」なんですね。
たとえば、ざっくりと「歌詞がで描いている世界が凄いなあ」とか「言葉が美しいなあ」で行きましょう。
最近、よく聴いているSTU48の「風を待つ」なんかは、メロディを含めて、その世界に居たいと思わせる名曲ですし、NMB48の「ドガとバレリーナ」は、秋元康が本気だしたんじゃない、という写実的な世界を描いています。
じゃあ、SKE48はという話になるんですが、僕はこの「石榴の実は憂鬱が何粒詰まっている?」なんですね。
「賛成カワイイ」の収録曲が発表された時に「なんか変わったタイトルの曲が出てきたなあ」と思ったもんですが、実はこの曲、SKE48の曲の中でトップ3に入るぐらい好きな曲です。なんていうんでしょう、文学性を非常に感じる歌詞だと思うんですね。
まあ、まずは聴いてみましょう。僕はサビに入る前が一番好きですよ。
さて、恋人のタイプは様々ですが、「気難しい彼女」を手に入れたことがある人でしたら、この主人公の気持ちが凄く分かるんじゃないでしょうか。「猫の尻尾がピンと立ってるように」ともちょっと通じるんですが、あれはまたアプローチが違いますね。
まず、歌詞の状況を整理しておくと、ある部屋の中に「僕」と「君」がいます。
「僕」の手元には「石榴の実」があります。
「君」の方は機嫌が悪くて黙っています。
部屋にはヨーヨー・マというチェロ奏者の曲がただ流れている。
時間は秋の黄昏。
ここまでが状況的な説明です。
ちなみにヨーヨー・マが演奏する曲で有名なものを一つ。
実は、「君」と「僕」は結構大人なのかもしれません。
先に「僕」の心情を押えておくと、彼女に対しての愛は強いものの、何もすることができずに、相手のことを「持て余してることを認めたくない」という状態です。機嫌の悪い彼女には打つ手がないんでしょうね。ただ、彼女が憂鬱に感じていることを話してほしい、と感じているのは間違いないです。
さて、次に機嫌の悪い「君」についてなんですが、「石榴」が上手い比喩になっているわけですね。皮で覆われた「石榴」と機嫌が悪くて心情的なバリアーをしている「君」。
イメージさせる言葉としては、彼女の「酸っぱい表情」なんかもそうですよね。
彼女の心が柔らかくて傷つきやすいというのも、石榴の実のようですね。
次に、彼女=石榴で考えた時に、何故主人公が見たこともない「石榴の花」にロマンを感じるのかが見えてきます。
石榴は、実の一粒一粒に中に種が含まれています。
曲中の言葉で言えば、恐らく実の中には「憂鬱の種」も含まれているんでしょう。
それを「知らない土地」に吐き出すことで、やがて花になっていくわけです。そして、花になった後は、熟して実になっていく。
現在、二人の部屋にあるのは「実」です。
ということは、「花」の時間は過去という可能性が出てきます。
「花」は大恋愛していた頃、手にいれた頃を表しているかも知れません。それを裏付ける言葉として、「甘い記憶」という言葉が出てきます。ひょっとして、二人の関係は、もう「花」の後の熟した「実」の時間にさしかかっているのか。「黄昏」や別れの前の「秋」がきているのではないか。それでも、「出口ない思い出作ろうとしている」んじゃないか。そう考えさせられました。なにより「イラン産」という自分から遥かに離れたところということから、もう遠くのものなんだという暗喩かもしれません。
ただね、この曲の奥が深いところが、さっきの「甘い記憶」、それが「枯れるまで」というのは、なかなか解釈が難しいところです。なぜなら、その前に「赤い涙」という言葉もかかっているからです。彼女の涙が止まるまでと読み解くこともできますし、赤い涙から連想される石榴の種、つまり、憂鬱の種が出てくるまで、とかね。それだけじゃなく、良かった記憶が無くなるまでとも考えられるかな、と。
更に書いていくと、「言葉だけじゃ解決できないって思ってるなら ねえ もう」と、じゃあ、行動で何か解決するのか、それとも別れを選ぶのかをはっきりさせないんですよね。
あくまで曲の見方の一つなんですが、この曲に文学性を感じる点として、上記の石榴と機嫌の悪い彼女との関係、そして、時間軸と場所軸の交差なんですね。現在と過去、日本とイラン。それぞれ重層的になり、独自の世界を生み出しています。多分、実際の時間はヨーヨー・マの曲の間だけなんでしょうけどね。
なんだろう、考えているうちに何か見落としているんじゃないか、と不安にさせられる曲です。本当はもっと考えがまとまってから書くべきだったかも知れませんが、手を動かしながら考える派なので、また、自分なりに解釈ができたら書きたいと思います。たとえば、石榴の花を見たことが無いという解釈を拡げてアプローチした方がいいんじゃないか、とかね。
最後にこれから考えていく上でのヒントになりそうな情報を。
石榴の実の花言葉は「結合」。
じゃあ、やっぱりなんとか持ち直すのかなあ。
えっ、秋元康はそこまで深く考えてないんじゃないかって?
そこが表層研究の悲しいところです。
本当に話を聞きたい一曲です。