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2020年11月18日水曜日

もう一度叫びたい言葉

あの言葉を


 映画鑑賞が趣味で、よく私的なことを書くnoteに映画の感想を書きます。
 映画にも色々な作品があって、「ヒット作」、「クラシック作」、「ジャンル拡張作」、「自分だけの特別作」など、様々なです。
 ちなみに「ジャンル拡張作」というのは、そのジャンルの可能性を拡張した作品です。
 たとえば、2020年11月現在、「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」がヒットしています。仕事の関係で初日から何回も観るハメになっていたんですが、この作品について評価する際に、僕の周りの映画好きの間では、「生涯ベスト級!」という声は聞こえてきませんでした。
 だからと言って駄作かというと、そうではなく、ストレスなく観られるレベルにはちゃんとなっていると思います(説明の台詞が多い気もしますが、対象年齢を考えたらそれでもいいのかなと思いますしね)。
 勿論、「スパイダーマン スパイダーバース」のようなアニメ映画を拡張するような斬新さはありませんし、ジブリ作品のような「スタンダード作」になるにはまだ時間がかかるかも知れません。
 でも、動員数や興行収入では記録を出し続ける「ヒット作」でもあるのは間違いないと思います。


 映画鑑賞は食育に似ていると思います。
 何を食べてきたかで、味覚が変わってくる。
 和食ばかり食べてきた人には、他のジャンルを食べた時に味にびっくりするかも知れませんし、世界中の料理を食べてきた人には、「あっ、これは知ってる味で、あの国の料理に似ているな」と思うかも知れません。
 食べた数が少なければ、出てきた料理も新鮮に感じるかも知れない。
 だから、「ヒット作」を斜に構えた目で、「オードリーのオールナイトニッポン」風に言うと「ハスって」、いや「〇〇の方が面白いのに、こんな作品で喜んでるやつらは馬鹿だ」とか、「俺たちの方が本当に良いものを知っている」みたいな目線は、ちょっとこれから来る世代には可哀そうだなと思っています。
 更に言うと、作品の周りの声が大きくなりすぎて、ハードルが上がり過ぎたというのもあるかもしれませんけどね。 
 ただ、映画自体が「映画観に行った自分」をSNSにアップして「コト消費」するものに10年代後半からなり、「物語性」の文脈で楽しむという楽しみ方は薄くなってきたように感じていました。
 いわば、「同時体験」としての「映画鑑賞」の要素が強くなってしまった。

 でもね、だからと言って、「映画をよりレジャー感覚で観るのはけしからん!」とかいう考えもなければ、「えっ、何、ほんとに『鬼滅の刃』のこと好きなの?じゃあ、日本アニメ史においてどのようなエポックメイキングがあり、これからのディケイドに対してどんな可能性を秘めていて、富野・押井・宮崎は勿論、新海・片渕作品と比較した時に、1本の作品としてどれぐらい独自の作家性がどれぐらいあるか説明してよ」みたいな面倒くさいことも考えてなくてですね。

 一人の映画ファンとして願うのは、映画館につめかけた若い子たちに思うのは、「また映画観に行ってね、他にも面白い作品沢山あるよ。今度は外国のはどうだい?」とか「今日観た映画10年後も好きでいてくれたら嬉しいな」という気持ちです。「ヒット作」が入り口になって、いつか「自分だけの特別作」に出会えたらいいなと思うので。

 あれ、全然、SKE48の話始まらないな、と思ったアナタ。
 お待たせしました。
 急に作品のど真ん中で「ヒメアノール」と出るように、やっと折り返しです。

 さて、映画の「ヒット作」や「クラシック作」、「ジャンル拡張作」、「自分だけの特別作」をSKE48に当てはめてみるとどうでしょう?

 「ヒット作」は、売れ行きという観点から観て、「コケティッシュ渋滞中」や「チョコの奴隷」でしょうか。あるいは、紅白で披露された「パレオはエメラルド」かもしれません。
 「クラシック作」は、何年経っても古びない時代を超えて愛されるという意味では、僕の主観になって恐縮ですが「恋を語る詩人になれなくて」や「前のめり」かも知れません。 

「ジャンル拡張作」は、「金の愛、銀の愛」や「猫のしっぽがピンのと伸びてるように」や「FRUSTRATION」でしょうか?

 さて、最後の「自分だけの特別作」。
 これは一人一人に存在すると思うんですが、久しぶりに自分で考えてみることにしました。
 歌詞の素晴らしさでいえば「誰かの耳」や「前のめり」なんですが、自分の体験も込みにすると「特別」感が増すかなと考えました。
 そこで、ふと気づいたんです。
 マスクを全部洗濯してしまったことに(突然、登場する筆者の日常)。


 これ、マスクせずに外に出たら、白い目で観られるなあ、やだなあ。
 そういや、最近、珠理奈の動画で、メンバーのリハが映っていたけど、みんなマスクしてたなあ。
 観客もいまマスクだもんなあ。
 声も出せないし。
 まあ、コンサートでそんな声を出すほうでもないけど。
 でも。
 「仲間の歌」の最期のアンセムは、毎回、声を出してしまうなあ。


 午前中の僕はマスクを干しながら、そんなことに気づきました。
 初めてSKE48のコンサートに行った時、「仲間の歌」を歌った時、何故か僕は泣いていました。当時の推しメンの中西優香がコールを煽っていたのもあるかも知れません。
 それは「箱で推せ!」ツアーの横浜アリーナでも、名古屋ドームでもそうでした。
 歌詞もストレートなメッセージで素晴らしいんですが、みんなで歌うという一体感で何故か毎回、歌いながら泣いてしまいます。

 なかでも一番特別なのが、松井玲奈卒業コンサートでの「仲間の歌」でした。
 あの時、松井玲奈の突然のお願いで、メンバー全員が観ることができた「オレンジ色の景色」。
 一部のメンバーしか名古屋ドームで観られなかった景色を、全員に見せてくれた。
 その文脈に気づいたメンバーから、泣いていましたね。僕が確認できたのは、ゆりあとかおたんでした。
 アイドルのコンサートという「他人」が頑張る姿を応援するコンサートで、一緒に声を出すことで「自分」のこととほんの少しだけ重なる。曲が終わったら、また離れる。でも、一緒に作り上げたあの空間だけは、特別でした。

 コロナが終わって、マスクなしでまた声が出せる時が来たら、もう一度、あの歌詞を歌いたいなと思っています。確かに、他の優れた曲たちよりも歌詞は平凡かもしれません。でも、僕にとっては大事な1曲でした。できれば、あの時の「同時体験」を超えるような素晴らしい空間で。なんとなく、珠理奈の卒業コンサートには期待しています。


 「仲間の歌」を口ずさみながら、マスクが乾くのを待つことにします。