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2020年2月11日火曜日

備忘録特別編 Mくんのこと

備忘録特別編 Mくんのこと


 ※今回の記事は、いつも以上に非常に私的な内容になっています。
  特にSKE48の話や映画の話も出てきません。
  私の自分語りが中心なので、お時間と気持ちに余裕がない場合は、おすすめできません。

 最近、昼夜のバランスが逆になったせいで、4時に寝て12時に起きるようになった。無職生活の悪いところだ。
 昨日も3時に寝た。
 目が覚めて、時計を見たら8時43分だった。
 もう一度寝ようかと思ったが、眠れなかったので、読みかけの本をまた読むことにした。


 Mくんと初めて会ったのは、小学1年生の時だった。
 保育園からの友達がほとんどいないクラスに入った僕は、入学初日から泣きそうになっていた。
 僕は字が死ぬほど汚かった。
 入学初日に先生がお世辞で「こんなにきれいな字、見たことない!」と褒めてくれた翌日に、「もっときれいに書きなさい」と僕を注意した時に、ここに僕の味方はいないんじゃないか、と不安になった。
 でも、味方はすぐにできた。
 Mくんだ。
 たしかきっかけは、『コミックボンボン』を読んでいることだったかな、と思う。当時SDガンダムのカードダスをMくんも集めていて、『ボンボン』で連載されている漫画の話をするのが楽しかった。
 僕が住んでいた愛媛県宇和島市は、僕が小さかったころは、川やドブが沢山あった。
 ある日、Mくんに家に遊びに来ないかと誘われた。
 Mくんの家は、僕の家から行こうと思うと、川を渡っていかなければいけないのだが、橋が架かっているところまで歩こうと思うと、5分ほど歩かなければいけなかった。今もあるか分からないが、電信柱や細い鉄骨のようなものを橋代わりにかけていた。
 僕は震えながら、その橋を渡って行ったのを覚えている。
 初めてMくんの家で遊んだのは、ファミコンの「ヨッシーの卵」だった。
 こんなに面白いゲームがあるのか、と衝撃的だった。
 僕の家は、ゲームが一時間しかできなかったが、Mくんの家は時間が特に決められていないのも、驚いた。
 ここは、最高だ、そう思った。
 僕らがゲームをしていると、Mくんのお父さんがやってきた。
 背はそんなに高くないけど、威厳のある人で、「ゲームばっかりしてたらダメだろ、遠くの山を見ろ」とゲームを止めさせられて、窓から二人で遠くの山を見た。
 「山見るのつまらんね」と僕が言った。
 「でも、だんだん木が見えて来るよ」と確かMくんは言っていた。
 僕は、こいつ変わったやつだな、と思った。

 それから、Mくんと遊ぶようになった。
 他の友達の家に遊びにいって、ファミコンの「がんばれゴエモン2」をしたりした。
 負けず嫌いで意地っ張りなMくんとは、よくケンカもしたが、すぐに仲直りした。
 Mくんは運動があまり得意ではなかった。
 僕の隣りの家の1歳年上の幼馴染の男が居て、僕は彼とよく遊んでもらっていた。
 年上の幼馴染は、スポーツが好きな子でよくサッカーや野球に僕を誘ってくれた。Mくんも一緒にどうかと誘ってみたことがあった。でも、彼は一緒にスポーツはしなかった。僕も小学生の時は運動が苦手で足も遅かったから、同じようにスポーツが苦手なMくんがいることが心強かった。校外マラソンはいつも後ろの方を一緒に走っていた思い出がある。
 僕が小学3年生の時だったか。2年に1度のクラス替えでも僕と彼は同じクラスになった。
 Mくんの家が少し、近くに新築の家を購入した。
 前の家から歩いて3分ぐらいの距離だ。
 新築になっても彼とやることは変わらないゲームだ。
 学校が終わって、夕陽が沈み始めるまで、彼の家でゲームをした。
 当時、スーパーファミコンの「マリオカート」や「ドラゴンボール 超武道伝」を対戦したり、交代で「ロックマンX」を進めて行った。
 ゲームばかりしている僕らを彼の祖母やまだ小さい彼の妹が呆れた顔で見ていた(両親は多分、共働きだったか)。
 「ファイナルファンタジー4」か何かRPGゲームが確か彼の家にはあった。
 これはいつやるのか、と聞くとみんなが帰ってからと言っていた。
 学校の帰り道。
 僕は作り話をするのが好きになっていた。
 なぜなら、Mくんが聞いてくれるからだ。
 あの話の続きは、きっとこうなったはずだとか、あの漫画は俺ならこうするという話から始まり、近所にあるあの山にはこんな伝説がきっとあるに違いない、という小学生ならではの根拠のない話を沢山作った。
 
 小学4年生の時に初めて彼女が出来た。
 嬉しかった。
 一緒に図書館に行って本を読んだり、宇和島城まで自転車で行って上ったりするのが楽しかった。
 少しだけ、Mくんと疎遠になった。
 それでも、僕はMくんの家に行った。
 気づけば、彼の家にはメガドライブも置いてあった。
 このままずっと、こいつとゲームして過ごすのかな、と考えていた。
 

 小学5年生になってクラス替えがあった。
 Mくんと初めて別のクラスになった。
 僕は、この2年間で新しい親友を沢山作っていった。
 初めてできた彼女とは小学5年生の3月に破局した。
 僕がホワイトデーのお返しを返さなかったからだ。
 お返しは大事だと、子供ながらに思った。でも、別にそんなことはどうでもよくなっていた。また、好きな子が出来ていたからだ。
 それから僕は親がゲームを禁止したおかげで、年上の幼馴染やクラスの親友たちを巻き込んで、サッカーをするようになった。当時は、Jリーグブームまっただなかだ。少し大きめの駐車場で僕たちはサッカーに興じた。
 とにかくゲームから離れていき、Mくんの家にはあまり行かなくなった。
 

 小学6年生になった。
 Mくんとの思い出はあまりない。
 もう完全に違うグループにいた。
 唯一、覚えているのは、修学旅行で行った阿蘇山ではしゃいでいる姿だった。ああ、あいつも楽しそうだな、と思ったことを覚えている。その日の夜、僕は同級生のSくんに好きな子を話して、最終日のフェリーの中で好きな子にそのことをばらされて泣いた。同級生の子が顔をふせて泣いている僕に「良かったね、Aちゃんもあんたのこと好きだよ」と言った声を今でも覚えている。
 でも、お互いにちゃんと打ち明けられずに、そのまま中学でべつべつのクラスになった。


 中学1年生になった。
 僕は同じ小学校の同級生が一人も居ないクラスに入れられた。
 泣きそうだった。
 でも、そこから友達が増えていき、当時流行っていたバスフィッシングのクラブを作って、クラスメイトや先生と休みの日に釣りに行った。
 部活は幼馴染が先に入っていたバレーボール部に入った。
 バレー部にも釣りをする子が居て、その子とも休みの日に釣りに行って、ムカつく先輩や同級生を「殺したいな」と言いながら、海や川に向かってルアーを投げた。
 Mくんは、隣りのクラスになったことだけは、入学式のクラス分け表で知っていた。
 
 それから、数か月経って、Mくんのクラスのバレー部員に言われた。
 「最近、Mが学校来てないの知ってる?」
 そうなのか、と思った。
 でも、それだけだった。
 事情が分からなかったし、自分にどうすることが出来るか分からなかった。
 やがて、MくんのいるクラスのみんなでMくんに学校に来てほしいという手紙を書いたという話を同じ子から聞いた。
 ひょっとして、と思った。
 いじめじゃないか。
 そして、こいつも主犯の一人じゃないのか、とも思った。ただ、困ったことにその部員は小学校の頃から、一緒にサッカーや野球もした仲間だった。それから暫くして、そのバレー部員は部活を辞めた。
 それから、隣りのクラスへMくんのご両親からクラス全員分の赤ペンが贈られたという話を別の子から聞いた。

 中学3年生になった。
 僕の成績はお世辞にも良いとはいえなかった。
 それはそうだ、毎日、部活ばかりして、家に帰ったら「新世紀エヴァンゲリオン」の角川フィルムブックの隅まで読み、「アニメージュ」のエヴァ補完計画のハガキ職人のペンネームまで覚えるぐらい読みこんでいたからだ。英語はろくに読めなかったが、「エヴァ」のアイキャッチ明けの文字は全部言えるようになっていた。
 高校は特に何の疑問も持たず、山ふたつ向こうの工業高校に入ることにした。男だらけの地獄だった。高校に入る2か月前に京極夏彦の「姑獲鳥の夏」を読んで文学に目覚めた僕にとっては、ここから本を一切読まない連中と3年間付き合うことになる。
 Mくんは、僕が住む街で当時一番入りやすかった高校に入ったと母親か誰かに聞いた。

 高校1年生になった。
 僕はバレー部に入った。
 なぜなら、幼馴染にバレー部に入れと言われたからだ。
 ちなみに僕は登山部でやっていこうと思っていたのだが、先輩の言うことは絶対だったから、すぐに移籍した。それから僕は、先輩が辞める2年の夏までバレーを続けることになる。
 ちなみにこの頃、僕はマジック・ザ・ギャザリングというカードゲームにはまっていた。部活をまたいでカードゲームサークルを作り、通販で2万円のボックスを買うために、日夜、アルバイトにいそしんでいた。
 この頃、小学生の時、僕の好きな子を修学旅行でばらしたS君と仲良くなる。
 彼は、Mくんが行ったのと同じ高校に行っていたが、すぐに退学した。
 モスバーガーでアルバイトしているそうだ。
 髪の色はすっかり変わり、昼間から商店街をうろうろしていたが、マジック・ザ・ギャザリングをするデュエリストだった。彼と、よく宇和島市の総合体育館の待合室で、デュエルをしたもんだ。
 ちなみに、彼は僕が勧める京極夏彦の本をどんどん読んで行ってくれた。それも嬉しかった。彼はよくザ・ピロウズを聴けと勧めてきた。今でもピロウズは僕の一番お気に入りのバンドだ。
 部活とデュエルにいそしむ僕は、すっかりMくんのことを忘れていた。

 高校2年生の2月10日のことだった。
 小学6年生からの友達の家にSくんと遊びに行き、だらだらとマジック・ザ・ギャザリングをしていた。Sくんが赤のデッキを使っていたことを今でも覚えている。
 あきたので、テレビをつけた。
 テレビには見慣れないどこかの海が映っていた。

 「アメリカ・ハワイ州オワフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船がアメリカ海軍原子力潜水艦と衝突」

 Mくんが入ったのは、宇和島水産高だった。
 そして、「えひめ丸」に乗っていた。
 Sくんは、「俺もあの船に乗っていた」と泣いていた。
 僕は何が起こったのか、しばらく理解できずに、友達の家を出た。
 それから数日して、テレビにアメリカへ向かうMくんのお父さんが映っていた。
 凄く疲れた顔をしていたのを覚えている。
 事故は日本時間の8時43分にあったそうだ。
 気づかずに僕らはヘラヘラ遊んでいたわけだ。

 Mくんの遺体は唯一見つからなかった。
 日米の潜水隊員が200回以上、潜ったが見つからなかった。
 どんな気持ちでMくんの家族が、アメリカから帰ったのかは分からない。
 それから数週間して、僕は、死んだ生徒の一人の葬式にいった。
 その子と一番仲が良かった同級生が泣いて動けなくなっていた。
 沈没していく時に手すりを握っていたところを生き残った同級生がみたそうだ。
 Mくんはどうだったか、と一瞬、僕は知りたくなったが、それを聞くと死を認めることにもなるな、と思った。
 僕の知る限り、Mくんの家は葬式はしなかったのではないかと思う。
 
 それから僕は大学受験をして、関西に出て、社会人になった。
 ちなみに今は無職だ。
 転職活動をしているが、もうすぐお金もなくなるだろう。
 昨日まで死んでもいいかな、と思っていた。
 前の職場に友人が二人自殺した人が居て、どちらも苦しまずにしんでいたという話を聞いてその方法を調べていた。
 あんなに好きだったSKE48のDVDやCDの処分も着々と進めて、服や本を捨て、両親に必要なものは全部実家に送ろうとしていた。
 
 グーグルの検索画面を僕のスマートフォンで起動すると、ニュースがいくつも出てくる。
 その中に「えひめ丸事故 今日で19年」というニュースが出てきて、色々なことが思い出された。
 それから、しばらくこの事件のことを検索した。
 Mくんのお父さんは、この事件のことを未だにマスコミに多くは語らないそうだ。その気持ちは僕なんかの想像の余地はない。ゲームばかりしている僕を呆れた顔で見ていた小さな妹はMくんに似た目鼻だちのすっきりした美人になっていた。
 
 もう、幼馴染ともSくんとも連絡を取っていない、僕の悪い癖で新しい環境に代わるごとに人間関係をそぎ落としていく癖がある。だから、友達なんて数えるほどしかいない。
 その方が楽だと思っている。
 去年、9年ぶりに実家に帰った時。
 Mくんの家はすぐそばだったのに、行けなかった。いや、行こうとしなかった。
 本当に薄情だと思う。
 そして、中学1年生の時に、なんで、Mくんの家に行かなかったのか。彼が学校に来なくなってから。
 一緒にカードゲームをしたSくんみたいに学校以外の社会があることを、僕は伝えることは出来なかったのか。
 あれだけ遊んでくれた友達の未来を少し違うようにできたんじゃないか、と罪の意識にさいなまれる。もちろん、僕がそんな大それたファクターではないことも分かる。それでも思ってしまう。

 彼の唯一の遺留品は、デジタルカメラだった。その中には3日前に行われたMくんの誕生日パーティの様子が残されていた。どんな顔だったのかは分からない。笑っていて欲しいと思う。

 「同い年の子が結婚したと聞くと、もし、生きていたらと考えることがある」とMくんのお父さんの言葉が、新聞記事か何かの記事で残っていた。
 彼の17年間をほんの数年一緒に過ごした友達の一人、いや、友達だったものとして、まだ生きなければいけない、とふいに思ったら、涙が出てきた。

 どんなに無様でも。

 彼が生きられなかった分も生きる。

 Mくん、ごめん、2月10日の間に書ききれなかったや。
 いつか、僕も行くから。
 あの頃より、少しうまく色々なことを話せると思うよ。
 それから、いっぱい謝る。
 だから、昔みたいに仲直りして、また遊んでほしい。


 それじゃ、生きるよ。


※Mくんたち家族のことは、そっとしておいていただければ幸いです。
また、僕のこの記事は望まれていない可能性もあります。
その場合は削除します。