ボンクラが英雄に!英雄がボンクラに!
なにはともあれ、これは観ておこうという監督や俳優っていると思うんですね。僕は、最近になってイーストウッド監督がこの中に加わりました。
最新作、「リチャード・ジュエル」も今日観てきました。
まずは、予告編をチェック!
どこかで見覚えのある顔じゃないですか?
そう、「アイ、トーニャ」に出てきたあのボンクラですよ!
何回観てもこの予告とテーマ曲は燃えますね。
そして、ブラッククランズマンのKKKに居たボンクラ!
だんだん、ポール・ウォーター・ハウザーさんがボンクラ界のトップエリートみたいに見えてきましたが(超失礼)、彼が主役を演じるということでね。
どんな感じかな、と思ってたんですけど、ハマり役!
無罪だから、主人公のリチャードを応援したいんですけど、ちょいちょい弁護士のワトソン目線になって、「いや、コイツ余計なことを言うなよ」と思ったり、「うわあ、爆破予告言わされてんじゃん、悪用されたらどうするんだよ」と心配になったりしましてね。
なんていうんでしょう。
「無知な善人」ほど、怖いものは無いなと思いましたよ。
リチャード自体は、全然悪い人じゃないんですが、そこはかとなく香るボンクラの香り。無駄に多い銃、「僕が注意したら酔った若者は帰っていきました」みたいなちょっとした見栄を張るための嘘。
ギリギリまで、「コイツ、はめられるんじゃないか」と心配で心配で仕方なかったですよ。
また、この映画で浮き彫りになってくるのが、「結論ありきの捜査や報道」の怖さですよね。まさか、スタジアムから公衆電話までの時間を最初に確認したのがワトソンだったというのがもうね。とりあえず、スキャンダラスだったらいいやという精神とそれを助長させる感じは、現代社会だと更に進んでいる気がしましてね。たとえば、Twitterで気軽にできるリツイートとかも、これが本当に正確な情報なのかどうか、を吟味する必要があるな、としみじみ思いました。
僕はSKE48が大好きなんですが、匿名掲示板とかまとめサイトとかのコメントに大分辟易してなるべく見ないようにしてるんですね。集合知としては凄い良いシステムとして作用するものが、気付けばファクトも無いアンチの罵詈雑言や印象操作の場と化してる気がしましてね。情報との接し方を考えないと自分もリチャードを非難していた人と同じになるなあ、と思いました。
「ハドソン川の奇跡」と同じように、観客は真実を知っているけれど、どきどきする展開。「15時17分パリ行き」と同じような勇気が試される瞬間。そして、「運び屋」のような自分が一番大事にするものとは何か?色々なものを思い出させられる作品でした。「行政執行官」とか「国」とか、何か大きいものや肩書きによりかかるのは楽だと思うんですが、本当に頼れるものか、最後は自分や大事な仲間たちじゃないかと考えさせられる名作でした。
いやあ、僕もボンクラの一人として、きちんと自分を持っていきていきたいな、と感じました。