君をみている
皆さんは誰かに影響されたことがありますか?
今回紹介する映画「のぼる小寺さん」は、「見る」ということを主軸に描いたというのは、監督が上映前のコメントで語っていましたが、まさに「見る」ものによって人は変わってくるんだなあ、というのがストレートな感想です。
この作品は体育館のシーンが多いんですが、男子校育ちの登山部・バレー部・ラグビー部・建築部を兼任でやっていた人間としては、体育館はあんな素敵な青春の場ではなく、破壊と暴力のパジェントの場でしかありませんでしたよ。
【ここからはネタバレありです】
さて、話を作品に戻すと、卓球部の近藤君がボルタリング部でがんばる小寺さんを見つめるところから始まるんですが、この近藤くん始め、小寺さんを見つめている人たちは、自分のやりたいことを見つけていられなかったり、内に閉じ込めたままだったりします。
そんな近藤くんたちの前に、やりたいことにひたむきな小寺さんが現れるわけですよ。自分のやりたいことに真っすぐな彼女の姿を見て、僕は「サイレントマジョリティ」のサビを思い出しました。
印象的なのは、小寺さんの独特の感覚ですよね。
一生懸命にチラシを配っている姿を茶化されて(しかも、元NMBの矢倉楓子さんに!)、怒るんじゃなくて「少し寂しい」と感じたり、一人で岩に昇る時間に自然と一体になる感覚。このあたりが、凄くふわっとしてて好きなんですよね。
周囲の目や声に対して、気にせずに果たしてどこまでやれるのか?
デレク・シヴァーズの「社会運動論」を僕は見ながらふと思い出しました。
何かを始める人は必ず一人で、周りから嘲笑や冷笑をされる。しかし、そこに理解者となる人がもう一人現れる。そして、3人になるとそれは「集団」になると語られています。
重要なのは、2人目であり、1人目と3人目を繋ぐ2人目が重要なんだそうです。この映画における2人目は、実は四条くんなんじゃないか、と僕は思っています。
そして、さっきの感覚の話に戻ると、「夏は音が消える」という小寺さんの言葉に、近藤くんは小寺さんに対して拒絶や嘲笑・冷笑をするのではなく、「わかんないけど、今度、やってみるよ」と歩み寄るんですよね。僕はこのシーンが大好きです。ここで小寺さんは、近藤くんのことを意識したんじゃないかと僕は思っています。
この映画を観ていると、「アイドル」と「ファン」の関係も連想させられます。わざわざ、アイドルの動画を観ている生徒を登場させて「一生懸命観てるんだよ!」という台詞まで言わせているんですが、推しを見つめることで、自分が少しずつ変化していくという関係のようにも僕は読み取れました。
たとえば、僕はSKE48を好きになっていなければ、今みたいに文章をオープンに書いていなかったでしょうし、多分、オールドメディアの方を目指していたんじゃないか、と思います。
「センターになりたい」とか、「総選挙で1位になりたい」という目標を目指して昇っていくアイドルたちを「ガンバ!」と応援するファンの図を僕はふと連想しました。
今、会社で働きながら、果たして僕は「見てもらえる側」の人になれているかな、SKE48を「見ている側」の僕もいつか、誰かに「見てもらえる側」になれるように、今日も頑張りたいな、と思わされた1作でした。
キャラクターとしては、ボルタリングの先輩コンビが、高校生とは思えないぐらいカッコ良くて好きです。
一番笑ったのは、梨乃がポーチを取りに戻った河原に、何故か小寺さんが居て、ゴミ拾いをしているところです。いや、なんでそこに居るんだよ!とツッコみそうになりました(あとで何故そこに居るのか分かるんですけどね)。
今回紹介する映画「のぼる小寺さん」は、「見る」ということを主軸に描いたというのは、監督が上映前のコメントで語っていましたが、まさに「見る」ものによって人は変わってくるんだなあ、というのがストレートな感想です。
この作品は体育館のシーンが多いんですが、男子校育ちの登山部・バレー部・ラグビー部・建築部を兼任でやっていた人間としては、体育館はあんな素敵な青春の場ではなく、破壊と暴力のパジェントの場でしかありませんでしたよ。
【ここからはネタバレありです】
さて、話を作品に戻すと、卓球部の近藤君がボルタリング部でがんばる小寺さんを見つめるところから始まるんですが、この近藤くん始め、小寺さんを見つめている人たちは、自分のやりたいことを見つけていられなかったり、内に閉じ込めたままだったりします。
そんな近藤くんたちの前に、やりたいことにひたむきな小寺さんが現れるわけですよ。自分のやりたいことに真っすぐな彼女の姿を見て、僕は「サイレントマジョリティ」のサビを思い出しました。
印象的なのは、小寺さんの独特の感覚ですよね。
一生懸命にチラシを配っている姿を茶化されて(しかも、元NMBの矢倉楓子さんに!)、怒るんじゃなくて「少し寂しい」と感じたり、一人で岩に昇る時間に自然と一体になる感覚。このあたりが、凄くふわっとしてて好きなんですよね。
周囲の目や声に対して、気にせずに果たしてどこまでやれるのか?
デレク・シヴァーズの「社会運動論」を僕は見ながらふと思い出しました。
何かを始める人は必ず一人で、周りから嘲笑や冷笑をされる。しかし、そこに理解者となる人がもう一人現れる。そして、3人になるとそれは「集団」になると語られています。
重要なのは、2人目であり、1人目と3人目を繋ぐ2人目が重要なんだそうです。この映画における2人目は、実は四条くんなんじゃないか、と僕は思っています。
そして、さっきの感覚の話に戻ると、「夏は音が消える」という小寺さんの言葉に、近藤くんは小寺さんに対して拒絶や嘲笑・冷笑をするのではなく、「わかんないけど、今度、やってみるよ」と歩み寄るんですよね。僕はこのシーンが大好きです。ここで小寺さんは、近藤くんのことを意識したんじゃないかと僕は思っています。
この映画を観ていると、「アイドル」と「ファン」の関係も連想させられます。わざわざ、アイドルの動画を観ている生徒を登場させて「一生懸命観てるんだよ!」という台詞まで言わせているんですが、推しを見つめることで、自分が少しずつ変化していくという関係のようにも僕は読み取れました。
たとえば、僕はSKE48を好きになっていなければ、今みたいに文章をオープンに書いていなかったでしょうし、多分、オールドメディアの方を目指していたんじゃないか、と思います。
「センターになりたい」とか、「総選挙で1位になりたい」という目標を目指して昇っていくアイドルたちを「ガンバ!」と応援するファンの図を僕はふと連想しました。
今、会社で働きながら、果たして僕は「見てもらえる側」の人になれているかな、SKE48を「見ている側」の僕もいつか、誰かに「見てもらえる側」になれるように、今日も頑張りたいな、と思わされた1作でした。
キャラクターとしては、ボルタリングの先輩コンビが、高校生とは思えないぐらいカッコ良くて好きです。
一番笑ったのは、梨乃がポーチを取りに戻った河原に、何故か小寺さんが居て、ゴミ拾いをしているところです。いや、なんでそこに居るんだよ!とツッコみそうになりました(あとで何故そこに居るのか分かるんですけどね)。
続編は小寺さんがホテルでアルバイトを始めて、ホテルに謎のガスが充満、そこから救出を待つために、ビルをフリークライミングで昇って行く「のぼる小寺さんEXIT」に期待するしかない!
そして、さらに数年後、「のぼる小寺さん フリーソロ」が公開されるに違いない!
色々とアホなことも書きましたが、この夏に観たい居心地の良い風や音がする素敵な映画でした。
そして、さらに数年後、「のぼる小寺さん フリーソロ」が公開されるに違いない!
色々とアホなことも書きましたが、この夏に観たい居心地の良い風や音がする素敵な映画でした。