人気の投稿

2020年10月1日木曜日

12周年公演に向けての短期集中連載第29弾「SKE48とSKE48風」

 君が見たものは何だ?

 美術はお好きでしょうか?
 僕は琳派が好きで、京都の国立博物館によく作品を観に行きました。
 年を経てからは、西洋絵画も勉強するようになり、ドガが一番好きです(だから、NMB48の『ドガとバレリーナ』はなんとなく、『アラベスクの終わり』を連想させて好きです)。
 その中で最近は、小林秀雄の「芸術新潮」の連載をヒントにピカソについても勉強しています。
 ピカソの友人であり、秘書でもあったサバルテスは、著作のなかで芸術において「探求」してしまうことの危うさをピカソはサバルテスに語ります。「意味」に拘泥してしまうことで、ありのままを捉えずに、芸術の本質とずれてしまうのではないか、という問題提起でもあると思います。

 何の話をしているんだ、と思われる方がいるかも知れませんが、12周年公演で一つ危惧していることがあるとすれば、振りを覚えるというのは良いと思うんですが、過去のSKE48のチームの模倣になってしまわないか、ということです。勿論、チームのカラーに即した公演曲もあります(『ラムネの飲み方』なんかは特に)。
 けれど、誰かの真似になってしまった瞬間、過去という歴史の重さに負けてしまうと僕は思っています。youtubeで曲を検索すると、よく「cover」という名のカラオケが沢山アップされていますが、「~風」の仕上げは出来てもその曲の本質を自分なりに再構築できるのは、やはり、プロの人達ならではだと思います。SKE48だと、古畑奈和ちゃんの「コールボーイ」とかね。
 小林秀雄は著作の中でピカソの模倣に走る人は、あまりに危険な道で、模倣者は呪われるとまで、書いています。ただ、ゴーギャンやゴッホが自分たちの知らない土地の芸術の歴史にふれた時、自分の内面や自分に似た何かを見つけたように、メンバーたちも過去の公演にふれることで、自分の中の新しい顔や何か時間差の同期感を抱く瞬間があるのでは、と期待しています。そこからどうやって、本質を掬って自分たちの表現にしていくのか(マネみたいに歴史に苦しめられる可能性もあり)。

 僕らも過去に捕らわれず、「あの時の〇〇と違う!」と「〇〇を超えるのは無理!」という史観はいったん置いておいて、ナチュラルな視点で12周年フェスをみていきましょう。ピカソの言葉を借りるならば、「時と場所と見る人の精神状態が仕上げをするだけだ」でしょうか。美術の名作は、見るひとの精神状態や美術館など、場所によって感じ方も違ってきます。僕らの見方できっと公演も変わってみえる。

 ピカソがセザンヌを評して、彼の注意力の凄まじさをとらえ、セザンヌが木の葉を掴んだら、木のことも掴んでいる。それほどの注意力の持ち主であると書いていました。

 一つ一つの公演も、簡単にわかったら面白くない。
 自ら踊り、歌うことで、注意力を総動員して集中してこそ見えてくるものがある。その時、本質に触れられるのか?
 誰かの真似で終わるのか?

 どこまでも危うく探求しながら、「SKE48風」ではなく、新しいSKE48の公演を作っていってほしいですね。

※「親友ピカソ」の中の有名な会話を連想させるこの曲を聴きながらお別れです。