祖父の言葉
「備忘録特別編 故郷へ帰る」の記事はこちら!
https://oboeteitekure.blogspot.com/2019/02/blog-post_17.html
関西に帰ってきた紅條です。
帰省1日目の様子は「備忘録特別編 故郷へ帰る」で書きましたが、2日目はどんな感じだったのか、書いていきます。
まず、1日目に伊達博物館に行った時に、我が故郷である愛媛県宇和島市から48グループのメンバーが出た!ということで、兵頭葵さんのことを知りましてね。家に帰ってから15才歳の離れた弟にSTU48の話を聞くと、ドラフト3期生の中村舞さんが高校の後輩だったということを聞きましてね。美人で有名だったみたいですよ。
朝から少し手持ち無沙汰だったんで、近所の本屋とCDショップが合体した明屋書店に行って、アイドルのコーナーをウロウロしてみたんですが、明屋書店はラストアイドルのコーナーが強いな、と思ってよくみたら、宇和島出身の子がいるんですね。愛媛出身の子も。ちなみにSKE48は「Stand by you」がちゃんと売ってましたよ。何故かタイプDがなかったので、この街にまでかおたんずがいるのか、と震えが止まりませんでしたよ。
さて、STUのコーナーを探しても「暗闇」しかないので、「この店はもぐりだな」とシンプソンズの親父みたいなことを言って帰ろうかと思ったら、新譜のコーナーにがっつり置いていた!折角なので、兵頭葵さんが歌唱している曲が入っているタイプCを購入しましたよ。
ここまで読んで、「おい、お前SKE48のファンなのに、何、STU48の曲買ってんだよ。その金、俺達、私達、吾輩達がてめえのブログの見たくもねえ広告を俺達のパソコンのモニターに表示させたり、俺達に広告をクリックさせたりして得た金だろうが!今すぐ映画『スリー・ビルボード』の編集長みたいに、2階の窓から投げ捨ててやろうか、こら!」と思った方もいるかも知れません。
いやいや、この兵頭葵さん「地域貢献」の為に頑張ってるみたいでね。
愛媛新聞を読むと、紅條が住んでいた頃にはなかったお城まつりにも参加してますよ。
https://www.ehime-np.co.jp/article/news201804270024
ええ、小林豊もきてね。
えっ、小林豊?
なんで、カイトさん、こんなとこに来てんだよ!と思ったら、この辺を舞台にした映画「海すずめ」に出てたんですね。名古屋から来てくれてありがとう。また小林豊の好感度が上がりました。やっぱ歩いてる時の音楽は、「乱舞 Escalation」なんですかね。
https://youtu.be/2NiFUqyV6QI
本筋からずれましたが、実はSTU48のある曲とSKE48のある曲を並べてみると、新しいことが見えて来るんじゃないか、と考えてましてね。近日中に書きますからお楽しみに。
その後は、実家で17年前に亡くなった祖父の戦後から死ぬまでのここには書けないヤバイ話を初めて聞かされましてね。一言で言うと「鬼龍院花子の生涯」。父が花子にならなかったのが、松恵サイドだったのが、奇跡としか思えないぐらいのヤバイ話でした。
午後からは母方の祖母の家に生きましてね。
石応(こくぼ)という海辺のちいさな町へ行きました。
静かな町なんですが、紅條は歩いていたら、「ディストラクション・ベイビーズ」の主題歌が頭の中で流れてましたよ。https://youtu.be/PGhCdsj7EZY
でも、海も堤防も綺麗ですよ。
映画みたいに突然怖い人が、こっちが負けるまでひたすら殴りかかってくることはありません。
夜は、兄弟で映画「バーフバリ」を観るという謎の儀式を行いましたよ。
2日目で印象に残っているのが、母方の祖母の家に行ったことでね。
祖父が7年前に亡くなって、最後に僕が愛媛に帰ったのもその祖父の葬式の時なんですね。今は90歳になる祖母と60ぐらいの伯父が一緒にくらしてます。
久しぶりにあった祖母は色々と昔のものを僕に見せたかったらしくて、既に閉校になった石応小学校の卒業アルバムを出して母の子供時代の写真を観たり、あそこのあの人は今、こうしてる話をしたりしてくれたんですね。
暫くした時に、「そういえば、あの本はどこに行ったかね?」と伯父に尋ねます。
何の本だろう、と思っていると、祖父は長崎で戦時中に被爆しています。その被災者にインタビューをしていった本が残されているそうです。祖父が無くなる前に病院へ記者の方が取材にきたそうです。
僕はてっきり、広島で被爆したもんだと思っていたので、そうだったのね、と思いながら本を読んで行ったんですが、祖父の話が壮絶でね。
青紙が来て、海軍の施設で働たらいていたこと。
船の看板に出て、外の暑さに上着をぬごうとした瞬間、飛行機が見えて、遠くに行ったこと。
空が光ったこと。
次の瞬間には、火を押し当てられたように感じて床にたたきつけられたこと。
仲間たちが海に投げ出されていたこと。
上半身はほとんど、焼けただれていたこと。
死んだと思われて筵をかけられたこと。
なんとか動いて、生きていることを知ってもらったこと。
自分と違い、傷が深くない人は毎日死体の処理をしていたこと。
帽子をかぶっていた部分以外は髪の毛がぬけてしまったこと。
戦後苦しいはずなのに、自分に3日分の食糧が与えられたこと。
死体の処理をしていた人が後遺症でなくなってしまったこと。
漁師の仕事をしていたが、手がしびれて最初のうちはできなかったこと。
缶詰の工場で営業を始めたこと。
結婚したこと。
子供が生まれて、孫たちが生まれたこと。
被爆2世、3世には悪影響がないということが証明されているので、これからを生きるものにいわれのない悪口を言わないでほしい、ということ。
読み終わると、トイレに行ってくるふりをして、海の方まで歩いて行き、泣きました。
祖父の優しさに胸が苦しくなると共に、今の自分がここに居るのは、あの時祖父が生き延びたおかげだと思ってね。映画「未来のミライ」のような気持ちになりました。死んでもう7年も経っているのに、こんな優しい言葉をずっと残していてくれたと思うと、涙が止まらなくて、暫く祖母の家に戻れずに、堤防で蹲ってないてました。
あの日、吹いていた風の音、波の音、海の色、全部僕は忘れないと思います。